百済王朝の文化を訪ねて その1
扶余(プヨ)は、538年から660年の滅亡まで百済の都・泗沘(サビ)が置かれた地だ。日本と縁の深い古代国家・百済の歴史をたどれる史跡が集まっており、公州(コンジュ)とあわせてめぐるのが定番のコースになっている。
百済と日本の縁
百済は、中国東北部から南下した扶余族の兄弟が建てた国とされる。弟の温祚(オンジョ)が興した「十済」が繁栄し、のちに国名を「百済」に改めたと伝えられる。泗沘に遷都してまもなく、百済の聖王から日本に仏教が伝えられ、以後、百済と倭朝廷の交流が続いた。
660年、唐・新羅の連合軍によって百済の義慈王が捕らえられ、百済は滅亡する。このとき日本にいた百済王子・扶余豊璋を擁立して百済を復興しようと、倭朝廷は大軍を派遣したが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。この敗北により、多くの百済の王族・貴族・技術者が日本に亡命し、当時の日本の律令制度や仏教文化の発展に大きな影響を与えたとされる。倭朝廷はその後、唐・新羅の脅威に対抗するため急ピッチで国家体制を整えていく。これが大宝律令(701年)へとつながる、日本古代史の大きな転換点でもある。

見どころ1:定林寺跡
百済泗沘時代を代表する寺院の跡地で、建物は残っていないが、当時のまま立つ五層石塔が見どころだ。隣接する定林寺址博物館では、発掘調査の成果や、かつての伽藍の様子を伝える展示を見ることができる。



見どころ2:扶蘇山城
百済最後の王城とされる山城で、山道を登りながら扶余市街を一望できる展望スポットが点在する。城内には、百済滅亡の際に王宮の女官3000人が身を投げたと伝わる「落花岩」もある。この逸話の真偽には諸説あるが、百済滅亡の悲劇を象徴する場所として語り継がれてきた。


見どころ3:宮南池
百済の王宮に付属していた庭園池を復元した史跡で、韓国最古の人工池のひとつとされる。「三国遺事」には、百済30代・武王(幼名:薯童=ソドン)が、この池のほとりで生まれたという伝説が記されている。薯童が新羅の善花公主に恋をし、機知に富んだ童謡を広めて公主を妻に迎えたという「薯童説話」は、韓国で広く知られる古代の恋物語だ。夏には池を埋め尽くすハスの花が咲き、扶余の夏の風物詩として知られる「薯童蓮꽃祝祭」の会場にもなる。四季を通じて散策コースとして親しまれている。

アクセス
扶余へは、ソウルの高速バスターミナルから直行バスで2時間半ほど。市内の見どころは、定林寺跡・扶蘇山城・宮南池のいずれも扶余邑内に集まっており、レンタサイクルや徒歩でまわることもできる。公州とは車で40分ほどの距離で、あわせて1泊2日でまわる旅行者が多い。
年表:百済滅亡前後の日本
百済滅亡から大宝律令制定までの日本史は、この時代の東アジア情勢と深く連動している。
593年 十七条憲法(聖徳太子)
645年 大化の改新(中大兄皇子)
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦い(扶余豊璋・中大兄皇子)
681年 律令の制定に着手(天武天皇)
689年 飛鳥浄御原令(持統天皇)
701年 大宝律令
よくある質問
Q. 扶余と公州、どちらが先の都?
A. 公州(熊津)が先で、538年に扶余(泗沘)へ遷都した。百済滅亡まではこの泗沘が都だった。
Q. 定林寺跡の見どころは?
A. 百済時代のまま残る五層石塔。建物はなく、跡地と石塔のみが見学できる。
Q. 宮南池のベストシーズンは?
A. ハスの花が咲く夏。関連の祝祭も開催される。
Q. 扶余市内はどう移動する?
A. 見どころが邑内に集中しているため、徒歩やレンタサイクルで十分まわれる。
Q. 白村江の戦いとは?
A. 663年、百済復興を目指す倭・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍が朝鮮半島西岸で戦った海戦。倭側の敗北により、多くの百済人が日本へ亡命した。

