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壬申の乱と天武天皇
- 2016/4/1
- 中大兄皇子は百済人か
大海人皇子には、後に皇后となった鸕野讃良皇女の他に三人の妃と三人の夫人がいますが、鸕野讃良皇女を含む四人の妃は皆、中大兄皇子の娘。
皇女たちが大海人皇子の妃となった経緯は詳かでありませんが、なぜ、自分の娘を四人も弟の妃にしたのでしょうか。
この時代の皇族や貴族の妃は、婚姻によって血縁関係をつくるいわゆる政略結婚が多く見られますが、弟ならすでに血縁はあるので、婚姻によって血縁関係を作る必要はありません。
血縁関係がなければ、中大兄皇子にとって大海人皇子は、最も懐柔したい人物です。
ちなみに、中大兄の娘のうち、大田皇女は中大兄皇子の即位する一年前に亡くなり、大江皇女と新田皇女は天武天皇没後の六九九年に薨去。
鸕野讃良皇女こと持統天皇は七〇三年に崩御し、火葬ののち天武天皇と合葬されました。
大海人皇子こと天武天皇は即位すると、すぐに新羅と親交を結んでいます。
新羅にとって倭はかつての仇敵であるにもかかわらず、いとも簡単に親交を結んでいます。
また、大友皇子をはじめ、自らの妃を除く天智帝の皇子を根絶やしにしました。
中大兄皇子こと天智天皇が翹岐なら、百済王族の血をひく男子を根絶やしにした天武天皇は、新羅にとっては敵ではなくなるので、積極的な親交を結んだとしても不思議ではありません。
天智帝は子の大友皇子を後継にする意向でしたが、天智帝が崩御すると、大海人皇子を帝に推す声も多く、大友一派による暗殺の動きを察した大海人皇子は、出家して隠遁していた吉野から美濃に逃れます。
そして、美濃と尾張に加えて、大和や近江京の支援者も得て大友軍を破りました。
壬申の乱です。
このとき、大友軍は太宰府に援軍を要請しましたが、沿岸警備を理由に拒絶しましたが、その実、中大兄が近江に帰還したあと大宰府に残った大海人皇子に対する支援だったと推察できます。
即位した天武天皇は大臣をおかずに、皇后鸕野讚良の助けを借りて親政を行いました。後の持統天皇です。
鸕野讚良の父は中大兄皇子で、母は乙巳の変で中大兄皇子に味方した蘇我石川麻呂の娘遠智媛。
大海人皇子の妃に鸕野讚良と父母を同じくする大田皇女もいましたが、壬申の乱を前に亡くなったため、鸕野讚良が壬申の乱で大海人皇子を支え、天武天皇即位後に皇后になりました。
帝となった天武天皇は、帝の称号を天皇と改め、国号を日本と定めます。
内政面では、才能があるものを官吏に登用し、才能があり望む者があれば婦女であっても宮仕えを許し、また、律令を整え、日本の正史である日本書紀の編纂を命じました。
律令は、天武天皇のあとを継いだ鸕野讚良こと持統天皇の三年(六八九年)に飛鳥浄御原令が制定され、文武天皇の御代、大宝元年(七〇一年)に大宝律令として完成しました。
日本書紀はさらに時代を下った養老四年(七二〇年)に完成しています。
外交面では、白村江の戦い以来疎遠だった新羅との関係修復に取り組みました。
天武帝は新羅との関係を修復する一方で、新羅系帰化人はもちろん、白村江の戦いののち、百済から帰化した百済系帰化人にも租税を免除するなど、帰化した渡来人を優遇。
扶余豊璋の実弟、善光には百済王の称号を与えました。
一方で、百済遠征以降、九州沿岸の防衛のために設置した防人はそのまま残しています。
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