東部二村洞はなぜ日本人の街になったのか ― 半世紀の経緯といまの暮らし【2026年版】
東部二村洞に日本人が集まったのは、偶然でも「日本人好みの街だから」でもない。始まりは1965年の国交正常化と、南山から発信される無線電波だった。半世紀を経て理由は入れ替わったが、街はそのまま残っている。ここではその経緯と、いま実際に住むとどうなのかを整理する。
始まりは1965年 ── 情報が命綱だった時代
1965年に日本と韓国が国交を回復し、取引を始めた日本企業の駐在員がソウルに住むようになった。
携帯電話もインターネットもない時代である。緊急時の連絡は南山の電波塔から発信される無線が頼りだった。いまなら大使館からメールが届き、ソウル日本人会からも携帯にメッセージが入る。しかし当時は「電波が確実に届く場所に住む」ことが、そのまま安全に直結した。
なぜ二村洞が選ばれたのか
南山の南麓にあたる梨泰院は米軍向けの歓楽街で、その南側には軍事施設と米軍住宅が広がっていた。欧米人の居住区はすでに梨泰院・漢南洞に形成されている。
南山の電波が届き、治安がよく、住宅地としてこれから開発される場所 ── その条件に合ったのが東部二村洞だった。いまでも二村洞からは南山タワーがよく見える。
社会が大きく動いた時期でもある。朴正煕大統領の暗殺が1979年、光州事件が1980年。韓国の民主化と経済発展が本格化するのは1987年の民主化宣言と、翌1988年のソウルオリンピック以降だ。南山から流れる情報は、いまのメールやメッセージ以上に重い意味を持っていたのかもしれない。
電波が理由でなくなった後も残ったもの
携帯電話が普及し、無線を受信する必要はなくなった。日本人の居住地もソウル各地に分散している。
それでも東部二村洞に住み続ける人が多いのは、ソウル日本人学校のスクールバスが発着する唯一の地点であり、日本語が通じる医院や日本の食材を置くスーパーが半世紀かけてここに積み上がったからだ。理由が「電波」から「学校と生活環境」に入れ替わった、と言ったほうが正確だろう。
「日本語が通じる街」は本当か
ここは誤解されやすい。東部二村洞は、日本語が通じる店が特別に多い街ではない。割合でいえば明洞や仁寺洞、梨泰院のほうがはるかに高い。
二村洞の特徴はむしろ外国人客の扱いに慣れていることだ。日本人に限らず外国人居住者が多いため、言葉が通じない相手とのやりとりに店側が慣れている。値札を指す、電卓で金額を示す、カフェなら「sugar」「milk」程度の単語と身振りで用が足りる。
韓国語ができなくても生活しやすいのは事実だが、それは「日本語が通じるから」ではなく「言葉が通じなくても回るから」である。この違いは、住む場所を決める前に知っておいたほうがいい。
漢江か、南山か ── 部屋選びの好みの違い
眺望の好みにも差が出る。ソウルの人は漢江が好きで、漢江ビューの部屋は家賃が高い。
一方、日本人駐在員に漢江への思い入れはあまりなく、四季で表情が変わる南山の眺めを好む人が多い。同じ団地でも向きによって家賃は変わるので、眺望にこだわりがないなら選択肢を広げたほうが条件はよくなる。
よくある質問
Q. なぜ東部二村洞に日本人が集まったのですか。
A. 1965年の国交正常化後、緊急連絡が南山の電波塔からの無線に頼っていたため、電波が確実に届き治安のよい住宅地として選ばれたのが始まりです。現在は日本人学校のスクールバス発着地であることが最大の理由になっています。
Q. いまも日本人はここに集中しているのですか。
A. 携帯電話の普及で電波の制約はなくなり、居住地はソウル各地に分散しています。ただし学齢期の子を帯同する世帯は、スクールバスの関係で東部二村洞を選ぶ傾向が続いています。
Q. 日本語だけで生活できますか。
A. 日本語が通じる医院やスーパーはありますが、街全体で日本語が通じるわけではありません。外国人の応対に慣れた店が多く、言葉が通じなくても用が足りる、というのが実情に近い表現です。
Q. 家賃はどのくらい高いのですか。
A. ソウル市内では高級住宅地にあたり、家賃も物価も割高です。会社が住居費を負担する前提でないと選びにくいのが実情です。
