中大兄皇子は翹岐なのか

中大兄皇子の言動や大海人皇子との関係には不可解なことがいくつかあり、中大兄皇子は翹岐で、中臣鎌子は智積だったという説の論拠にもなっています。

中大兄皇子は、斉明帝が崩御したあとも、即位せずに皇太子のままで政務を執っています。
そして称制から6年半が過ぎた天智天皇七年(六六八年)に即位しました。
白村江の戦いに負けた倭軍は、百済人亡命者とともに帰還しましたが、扶余豊璋は倭に戻らず、北方の高句麗に逃れました。
そして高句麗もまた、天智帝が即位した六六八年、新羅・唐連合軍によって滅ぼされ、豊璋は高句麗王とともに唐に連行。
扶余豊璋は百済王義慈の直系で、百済帰国と同時に百済王になり、翹岐は傍系です。
倭には豊璋の実弟である善光もいて、豊璋に万一のことがあれば、善光が百済王の第一継承者。善光は後に持統天皇から百済王の称号を授かっています。
もし、中大兄皇子が翹岐なら、百済王の許可なく帝になるわけにはいきません。

そして、高句麗が滅亡して豊璋の行方が知れなくなると、翹岐が即位する障害はなくなったと解することができます。

実際はどうだったのでしょうか。

中大兄皇子と扶余豊璋はいわゆる義兄弟のような関係だったのかもしれない。
扶余豊璋は幼くして来朝。 祖国には兄たちがいて百済王になる可能性はまずありません。
片や中大兄皇子こと葛城皇子も帝の子といえ、実権は蘇我氏が掌握しています。
異母兄の古人大兄皇子は蘇我の血筋だし、古人のほかにも蘇我の血をひく皇族は多く、葛城皇子が帝になる可能性は皆無に等しいのです。
二人の皇子は、将来、即位する可能性がなく、歳も近かったと推察されます。
そんな二人が意気投合するのは自然の流れだったと考えます。
過去の例から、蘇我に目をつけられると生命の危険さえあります。
葛城皇子は表舞台にでることなく、ひっそり暮らしていたのでしょう。
若い豊璋は命の危険はなくとも歴史の舞台に立つこはありません。
乙巳の変で、古人大兄皇子の「韓人が鞍作殿を殺した」という言葉は、扶余豊璋なり、あるいは翹岐や智積など、百済から帰化した人が深く関わっていたと解釈できます。
現場は三韓の調を奉る場で、扶余豊璋なり三韓からの帰化人がいても不思議ではなく、その帰化人が深く関わっていたと解すれば納得できます。
そして、中大兄皇子の百済遠征も、蘇我一族から帝に政権を取り戻してくれた扶余豊璋への礼かもしれません。帝になる可能性がなかった葛城皇子は、乙巳の変によって帝となる可能性が生まれました。
百済出兵によって、今度は豊璋に王になる可能性が生まれました。
扶余豊璋が乙巳の変に深く関与したのなら、百済出兵は中大兄皇子が豊璋にできる最大の返礼だったでしょう。
また、大海人皇子が中大兄皇子の皇女を妃にしたのは、第二の蘇我氏を生み出さないため、大海人が皇女を引き取ったとも考えられます。
日本書紀は、古事記とともに、天武天皇が命じて書かせたといいます。
乙巳の変で蘇我蝦夷は書庫に火をかけて多くの史書が焼失したため、記憶や散逸した資料をもとに編纂されました。
編纂を指揮したのは天武天皇の子ですが、編者のなかには乙巳の変や百済遠征をリアルタイムで経験した人もいたに違いありません。
多少の記憶違いはともかく、明らかな虚偽の記述を行うとは考えにくく、信憑性は高いと考えます。
http://wp.me/P6lE21-tY

kazNewsweek記者

投稿者プロフィール

広告プランナー兼フォトグラファー。広告印刷とWEBプランニングに従事して早20年。日系企業の韓国ビジネスに詳しい。韓国経済や社会文化情報の発信を行い、外国人生活モニターとしてソウル市に改善提案を行っている。
週末には日韓米豪いろんな国の人たちと趣味の音楽を愉しんだり、カメラ片手にソウルや近隣をここかしこ徘徊したりしています。

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