沙也可:大邱・達城韓日友好館
大邱(テグ)近郊に「達城韓日友好館」という記念館がある。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の際に日本軍から朝鮮側に投降し、そのまま朝鮮に帰化したと伝わる武将、沙也可(さやか)こと金忠善(キム・チュンソン)に関する資料を中心に、韓国と日本の交流の歴史を展示する施設だ。
沙也可(金忠善)とは
伝承によれば、沙也可は文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して加藤清正の軍とともに釜山に上陸した。ところが上陸まもなく3千人の兵とともに朝鮮側に投降し、火縄銃の技術を朝鮮に伝えるなど朝鮮軍の指導にあたって、秀吉軍と戦ったとされる。
戦後は朝鮮に帰化し、朝鮮王から金海金氏の姓を賜って「金忠善」と名乗った。大邱近郊の友鹿(ウロク)に土地を与えられ、その後も女真族の侵攻を撃退するなどの功績を重ね、正二品の位階まで昇進したと伝わる。

史実をめぐる3つの疑問
沙也可の実像については、日本側の記録が残っていないこともあり、古くから議論がある。よく指摘されるのは次の3点だ。
1. 上陸直後の投降:加藤清正は小西行長とともに4月17日に釜山へ上陸し、わずか16日後の5月3日には漢城(現在のソウル)へ迫る快進撃を見せている。戦局が有利に進んでいる最中に投降するのは不自然だという見方がある。
2. 3千人という兵力:加藤清正の軍勢は約1万人とされる。そのうち3千人を率いる立場なら相応の地位にあった武将のはずだが、日本側にそれらしい人物の記録が見当たらない。また、総大将の軍から3千人が離脱すれば大事件であり、記録に残らないほうが不自然だという指摘もある。
3. 「沙也可」という名前:武将の名としては不自然で、日本語の人名としても座りが悪い。この名前が何に由来するのかが、正体をめぐる議論の出発点にもなっている。
展示の見どころ
達城韓日友好館では、こうした沙也可をめぐる伝承と研究の蓄積を、日韓交流史という文脈のなかで紹介している。近くには金忠善を祀る鹿洞書院(ノクトンソウォン)もあり、あわせて訪ねると理解が深まる。沙也可の正体についての諸説は、別記事「沙也可(金忠善)」で詳しく扱っている。

アクセス
大邱市街から車で向かうのが一般的。鹿洞書院と隣接しているため、2施設をまとめて見学できる。
よくある質問
Q. 沙也可は実在した?
A. 朝鮮側の記録には残るが日本側の記録がなく、その正体には諸説ある。実在自体を否定する説は少ない。
Q. 鹿洞書院とは?
A. 金忠善(沙也可)を祀る書院で、達城韓日友好館に隣接している。
Q. 大邱観光とあわせてまわれる?
A. 市街から車で向かう距離にあり、大邱1泊2日の行程に組み込みやすい。

